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嬉しかった。 恐ろしかった。 もう二度とあんな思いはしたくないと思った。 =Wondrous Day= 〜Type R〜 おかしい。どうもオカシイ。 本当なら今日は休みを貰って朝から中央にはいないはずだった。 なのに三日前の朝一番、ベッドから起き上がることも出来ぬほどに気分が悪くなり、やっとの事で部下に電話をすると「今日は来てはいけません」との厳しいお言葉をいただいて。よって予定の有休が繰り上げられて本日は不本意にも出勤となる。 「おかしいと思わないか、少佐」 何がですか?と傍らで決裁の下りた書類をまとめて片していたホークアイ少佐は、眉一つ動かさず問い返す。 おかしいも何も自分がいけないのは分かっている。自己管理が出来ていなかった所為なのだからとそれだけのはずなのだが、その日の前夜はいつもどおり家に帰って食事を取り、汗を流して酒も飲まずに床に着いたのだ。どうして急に起き上がれなくなったのかは未だに答えが出ていない。やはり、自己管理が出来ていなかったのだろうか……。 どこかに倒れた理由がある。 頭で分かってはいるが、感情が納得行かず悲鳴をあげている。 どうして今このときに自分は身体を壊してしまったのだろう――。 今日は何があっても休みを取りたかった。 向かいたい場所があった。 伝えたいことがあり、やりたいことがあった。 どうしても―― 逢いたい人がいた―――。 「私はこの前の体調不良の件がどうしても納得行かない。 私はそんなに疲れていたのだろうか」 「前日は普通に職務をこなされていたと記憶しています」 「そうだよなぁ……」 やっぱり普通だったのだ。 仕事で問題があったわけではなく。 かといって病気などどこにも持っていない。先日の健康診断では医者からお墨付きを貰ったくらいだ。 『あれだけ激務をこなされて、よくここまで健康で居られますね。 日ごろの訓練の賜物ですかな』 全くその通りだろう。 ではなぜ――? あ。 ホークアイが片手を軽く口元にあて何かを思い出したように空を見つめる。そしてロイの方を向き、まだ報告していませんでしたね、と彼女が告げた内容はロイに頼まれた荷物を確かに届けたという事だった。 これに対しロイは目元を緩めてホークアイに、ありがとう、と応える。 「将軍の指示通り、今日朝一番に届けてもらうようにお願いしました。 その代わり料金は割増になっていますので、こちらは将軍の給与分から引かせていただきます」 「えっ!?」 「当たり前です。個人的な運用を軍の費用でまかなう事はできません。きちんと清算していただきますので」 相変わらずこの副官殿は容赦ない。 いや、もちろん、個人的な依頼だったので当然自己負担だろうと思ってはいたが、何も言ってこないのでもしやと期待していたのだ。だがそれは甘かったらしい。 このタイミングで告げてくるのがまた絶妙なのだ。 (参ったな) 思わず口元が緩む。 強くて怖くて、恐ろしく頼りになるかけがえの無い副官殿。 彼女にはきっと一生頭が上がらない。 だってそうだろう? このロイ・マスタングの考えを変えてしまえる、数少ない女性なのだから。 「本当に、君には頭が上がらないよ」 ありがとう、と再び礼の言葉を送ると、ホークアイは優しい笑みを浮かべて軽く会釈した。 一度決めたことだった。 まさかたった一年で取り消してしまうような、そんな簡単な決意ではなかったと自負している。 護りたかった。 幸せでいてほしかった。 もう二度と、己のために傷ついて欲しくないと願っていた。 ゆらぐ記憶の中で、確かに君は笑っていたね。 「鋼の――」 どうして笑っていられるんだ君は!! そう怒鳴ったのも覚えている。 己に寄りかかる少年の、力なく微笑む様がとても胸に痛かった。 『将軍が――無事なら――それでいい』 みんなが無事ならそれでいい。 自分の大切な人たちが、笑っていられるならそれでいいんだ。 (莫迦者が――) それは忘れもしない一年前の事。 ロイが少将の辞令を受けてから約半年後の事だ。 中央司令部全体を巻き込んでのクーデターが起こった。地方に潜伏していたテロリストと内部軍人の一部が手を組んで政権を我が物にしようとしたのだ。その一党の中には国家錬金術師も数人加わっていたため、戦いは熾烈を極めた。 セントラル中の人々が郊外まで避難するほどに戦況は拡大した。 一進一退の繰り返しに一週間、二週間と時間だけが過ぎてゆき、兵士たちの疲弊も只ならぬ状態になりつつあった頃、一つの転機が訪れた。 エルリック兄弟が帰還したのだ。 今度こそ身体をとり戻す手がかりが掴めたかも知れない、と息せき切って中央から飛び出していった兄弟は、この為反乱者たちの軍部情報には含まれて居なかったし、ロイたちにとってもあてにならない戦力として把握されていたのだ。 よってクーデターを起こして二十日目の朝、新たな国家錬金術師――エドワード・エルリックとその弟が突如彼らの前に現れ、軽く仲間を蹴散らしていく様を目の当たりにした為、反乱者たちは瞬く間に統制を失っていった。 見るものによっては天使にも悪魔にも見えた事だろう。 もともとデータに無いものが現れた時、人間はかくももろく混乱に陥りやすい。組織の中心が冷静な判断を下せなくなった時、組織は組織でなくなるのだ。 錬金術師二人の『中央突破』を皮切りに、軍が敵を押し倒していった。 形勢は軍に回ったか。 誰もがそう確信した時―― どおおぉぉっ。 轟音と共に中央司令部全体が一気に炎の砦と化した。 『何だ!?』 『爆弾がっ!? 一体どこに……っ』 浮かれかけていた時のまさに奇襲だ。 今度は軍が混乱の渦に飲まれそうになった。 崩れ行く柱や壁に道を遮られて、焔に囲まれ、本部に居た者のほとんどが混乱し成す術を失っていく。 状況を瞬時に察したロイは近くに居た部下たちに敷地内から脱出すること、また逃げ遅れているものがいれば誘導するようにと指示した。 恐らく敵方はもう自分たちに付け入る戦力を持ち合わせてはいないはず、ならば自分たちの身の安全の確保に専念しても問題はないとロイは判断したのだ。 『お前たち……早く、外に出ろっ!』 『し、しかし……っ』 『さっさといかんかっ!!』 『は、はいっ』 動けるものは皆、煙で見通しの悪い廊下へと駆け出していく。 自分は拠点となっていた部屋に一人残った。 彼の身体は爆撃の被害を受け、動けなくなっていた為だ。 寸でのことにとっさに頭をかばったのが良かったのか、意識が僅かに残ったにすぎない。 ただ焼かれた体の痛みがロイの精神を強烈に蝕んだ。 先ほど指示を出した口もすぐに動かせなくなった。 そして悟る。 もう自分に今からはない。 この崩れ行く瓦礫と共に朽ちていくのだ、と。 (焔にまかれて死ぬなら、それも天命か) ほぼ全身を覆う火傷の痛みに意識を失うのは時間の問題だった。 現状に妙に納得してロイは一度目を閉じる。 だからこそ彼は再び瞼を上げた時、その時こそ本当に心臓が止まるかと思ったのだ。 そこにはいるはずのない人が。 鋼の錬金術師がいたのだから。 右腕ではなく、左腕を失い、その肩口から絶え間なく流れ出る鮮血に身体を濡らして。 『鋼の!?』 恐ろしい。 こんなにも恐怖を感じたことが今までにあったか。 自分の負った火傷は完全に消え去って、身体も軽いと感じるほどだった。 けれど頭の先から血の気が一気に下がり、体が震える。 その自分の肩に寄りかかるように座り込んでいたのは、エドワード・エルリック。 ロイ自身が自覚する世界で一番大切な人物。 ぐったりとした少年の身体を抱えて、ロイは一瞬で全てを悟ったと思った。 彼が失っていたはずの右腕と左足は生身のそれに戻っていたから。 本当に彼らは身体をとり戻す方法を見つけて来たのだ。 それなのに、それなのに―――っ。 『その、左腕は、私を助けるための等価交換、か……』 返事は返ってこなかった。 ただ軽く口元を緩めて。 身体を更に、すいと自分に寄せてきた。 『鋼の……っ』 それからは無我夢中だった。 指令本部の敷地からエドを抱えて飛び出すと、そこにはホークアイ少佐と見たことの無い、けれどどこかで会ったことのあるような利発な雰囲気をもつ少年がいた。 ロイが建物から飛び出したと同時に、背後で砂煙を立てながら築かれていた全てが炎に包まれ崩れていく。 しかし後ろを振り向かない。振り向いている場合ではない。 『ホークアイ少佐!』 『将軍。………っ!! エドワード君っ!!』 『っ兄さん!!』 『ホークアイ少佐! すぐに近くの医療班を呼んで来てくれ。私はこの子を病院へ連れて行く。ここの指揮は君に任せる。出来るな?』 『はっ』 『兄さん……また……人体練成を………』 『アル…?』 『兄さんっ』 『鋼のっ』 『良かった――アル――良かった―――』 『兄さん……』 『お前が元に戻って、良かった――』 『兄さん……でも……でも……っ』 『本当に、良かった――』 『でもっ、兄さん!! 兄さんの左腕が―――っ!!!!』 『将軍が――無事なら――それでいい』 みんなが無事ならそれでいい。 自分の大切な人たちが、笑っていられるならそれでいいんだ。 そう言って見せたエドワードの笑顔が、ロイに一つの決断を下させた。 あの時ホークアイと共に駆け寄ってきた少年が身体をとり戻したアルフォンス・エルリックだということはすぐに気付いた。 二人の会話を聞いていると、どうやらアルフォンスの身体をとり戻した瞬間にエドは立ち会っていなかったらしい。 後に聞いた話では、最初は二人共にその場にいたのだが、エドのほうが早く練成が終わったため、アルフォンスの練成が終わる前に駆け出していったというのだ。 無論、ロイ・マスタング少将を助けるために。 驚いたことに彼らが身体をとり戻すための練成を行ったのは、自分たちが篭城している指令本部の目と鼻の先の市街地の中で、それもつい今しがたの事だとアルフォンスは言った。 彼らの目的に必要なものを敵側が持っていたというのだから、世の中何がどう転ぶか分かったものではない。 すなわち、この危機的状況に兄弟が現れたのは単なる偶然でしかなく、しかもその偶然に軍は、ロイは救われたのだ。 なんという事だろう。 ロイは抱えていた少年の身体をぐっと力強く抱き締めた。 エドワードは自分の為に本来受けなくてもよい傷を受けてしまったのだ。 折角……。 せっかく……っ!! 何も出来ぬ己の不甲斐なさに身を切られ。 アルフォンスからの責め立てる視線もあまりに痛く。 この事実に泣くことすら出来ぬ己自身が、 滑稽以外の何者でもなかった――― ロイが助けられた時点で紛争は終わっていた。犯人たちは死んでしまったものも含め全員が収容されたとの報告を後に受けるが、司令塔であった彼がその事を知ったのは紛争が終わって二日後の事だった。 それまではただエドワードの無事を祈り、ひたすら横たわる彼の横で血の気をなくした顔をじっと見つめていた。 彼が目覚めるまで一睡も出来なかった。もしや死んでしまうかもしれないと思うと、自分だけがどうしてのうのうと惰眠を貪れるというのか。 二日経った。 夜が明けて、朝日が昇って部屋を明るく照らしても、ロイの心が晴れることはなかった。 ただこの時すでに決めていた。 この少年をもう二度と軍に関わらせるものか。 自分の近くに彼を近寄らせるものか、と。 本当はずっと傍にいて欲しいと思っていた。 でもそれは 彼が生きていればこその望みだから。 「すまない、鋼の」 赦してくれとは言わない。 だがせめて想うことだけでも――。 だからもう――逢わないほうが良いのだろうね。 ぐっと下唇を噛み締めた。 口の中に僅かに血の味が広がった。 行かなければと思うのに、身体は動かなかった。 もう二度と逢えないのかと思ったら動けなくなった。 爪が食い込むほどに両の拳を握り締め、膝を上に置いたまま、目はずっと少年の息遣いを追って。 鋼の、 はがねの、 鋼の錬金術師、 エドワード・エルリック―― 「エディ……」 どれだけそうしていただろう。 ようやっと重い腰を上げたロイはエドワードの青白い頬に掌を滑らせて、額に軽くキスを落とし病室を後にした。 あのときの事をロイは昨日の事のように思い出せた。 それからは一度もエドワードに逢っていない。 気にかけない日など一日としてなかったが、クーデターの後『大総統代行』などという異例中の異例とも言える任命を受け、それまでとは比べ物にならぬほどに忙しくなってしまったからだ。 あの腐れ狸どもめ。 彼らの前で舌打ちしてやりたい気持ちを無理やり押さえ込んで、彼は勤務に誠心誠意取り組んだ。己を指名してきた上官たちの目論見など簡単だ。またあのような反乱が起きた時の責任逃れをするために、わざと気に入らない自分を指名して来たのだ。でなければこんな重要な役職をおいそれと廻してくるはずがない。 実際クーデター後、事の責任をとって何人かの将軍たちが退役している。 それくらいの覚悟もなしに軍にいるのなら、さっさと辞めてしまえ。 心中ずっと悪態をつきながら、彼らにはどこまでも従順な振りを見せて、この一年を乗り切ってきた。 それもホークアイを中心とした優秀な部下あってこそと、ロイは感謝の念に絶えない。 この一年で中央もようやく落ち着きを見せてきたように思えた。 破壊された街の再建もほぼ終りを見せ、通りを行けば以前のような活気溢れる人々の応酬が視界に眩しい。 ここまで来れば大丈夫だろう。 やっと一息つけるかと思い始めたのは、あのクーデターから一年という日まで、残り約数週間という頃だった。 そしてフッと思い出したのだ。 エドワード・エルリックの誕生日もたしかもうすぐであった筈だと。 カレンダーを確認すると、なんともうあまり日が無かった。 机上のカレンダーを睨みながら唸る上官をみて、新しい決裁書類を片手に執務室に入ってきたホークアイがどうしたのかと尋ねてきた。 丁度良いところに、とロイは彼女に一つ頼みごとをした。 エドワード・エルリックに何か贈り物をしたいのだが、私が直接持っていくことは出来ないから、その日一番の便で届くように手配してはもらえないだろうか? ホークアイは即座にハイ、と二つ返事を返してきたが、なぜかその後すぐに俯いてしまった。 顎に手を添えじっと考え込む様子を見せる。 いぶかしむようにロイが彼女の名を呼ぶと、すっと上がった瞼の奥からまっすぐにこちらに向けられる視線が合った。 『将軍、折角ですから将軍ご自身でお届けになってはいかがですか?』 これまた吃驚な発言にロイは目を丸くしてしまった。 すっとんきょうな声を出してしまっていたが、それも気付かないくらいに。 ロイの反応を無視して、ホークアイは無表情に言葉を続けた。 『この一年、将軍はずっとエドワード君を避けていらっしゃったようですが、本当にそれでよろしいのですか。 彼に届ける手紙も私名義で出してきましたが、何時までそんな子供だましな事を続けられるおつもりです? そもそも将軍は、今でもエドワード君にお会いになりたいのでしょう?』 この際ですからリゼンブールまで行かれては―――と。 丸く開いた双眸を、更に大きく見開いた。 いきなり核心を突かれて返す言葉が出てこない。 そうだ、その通りだと自覚した時、ロイは軽く眩暈を覚え、黒革の職務椅子に深々と身体を埋めた。 きつく眉をひそめ、目頭を押さえる。 実際決めたことだからと無理やり自分を押し殺してきたが、限界に近かったのも確かだ。 もう危ないことには巻き込みたくないと思い、軍と縁を切らせたくて、彼に国家資格を返上させた事は間違っていなかったと思っている。 しかし、しかし。 彼は今でも自分の事を覚えていてくれているのだろうか。 顔も見せず。 声も聞かせず。 便りすら出さないで。 否、忘れられないだろう。 彼の左腕を奪ったのは他ならぬこの自分なのだから。 おそらく今ごろは後悔しているに違いない。 なぜあんな男の為に自分の身体を犠牲にしてしまったのかと。 当然の事だ。 当然の事なのに、直接それを本人から聞かされでもしたら、今度こそ自分は死んでしまうかもしれない。 悲しすぎて生きてはいけないだろう。 心臓が動いていることだけが、人が生きるということではない。 『私はもう、彼には逢えないよ』 『なぜですか。エドワード君が逢いたくないと言ってきたのですか』 『いや。それは無いが……』 『では将軍がもう彼には逢いたくないと仰られるのですね』 そんなことは断じてない! とおもわず声を荒げて、ロイはバツが悪そうに眉を顰めた。 ホークアイはくいと眉を上げて、溜息一つ。 『では何をお悩みですか。 いままでどれだけの修羅場を潜り抜けてこられたのです? 貴方はロイ・マスタング。この国の少将にして大総統代行ですよ。もっと自分に自信を持ってください』 しかし、それとこれとは話の次元が違うだろうとロイが納得のいかぬ顔を見せると、いいえ、と間髪入れずホークアイは否定した 『いいえ、同じです。 同じ事です。 そもそもエドワード君がどんな思いで貴方を助けようとしたか、少しでもお考えになったことはあるのですか? 嫌うものの為に誰もその身を差し出したりはしません』 ただ貴方に生きていて欲しかった。何が何でも貴方を救いたかったんです。 自分だから分かるのだというホークアイの瞳はどこまでも真っ直ぐだった。 自分もこの瞳をずっとみてきた。 男女間の感情ではない。 上司と部下の信頼だけでもない。 もっとそれらを超えた、人と人との強い絆が自分と彼女との間にはある。 そんな感情が、自分とエドとの間にもあるのだと、ホークアイは言う。 『……まだ、間に合うのだろうか』 『私が思う限り』 まだまだ猶予期間だと思いますが。 彼女の言葉を聞いて、ロイは自分の中でずっと燻っていたものが晴れ晴れと消え去っていくことにふと気付いた。 どうにも彼女には頭が上がらない。 さてどうしたものかと苦笑を洩らしながら、ロイはホークアイに尋ねた。 『私が来週有休を貰うのは可能かな?』 上司の意図を素早く察知した副官はいつにない楽しそうな笑みを浮かべて、はい、と答えた。 『一日だけでしたらお時間を作れるかと思います。今差し迫って急ぐものはその机に置かれている書類の中の約半分といったところでしょう。後は二週間以上の期限のあるものばかりです。この積み重ねている分の……そうですねぇ……ここまでを今週中に見ていただければ問題はないかと思います』 将軍でしたら、すぐに終わらせられるはずですので。 そんなやり取りをしたのが先週の事。 だから自分が今ここで机に向かっているのは絶対におかしいのだ。 今日は本来なら朝からリゼンブールに居るはずなのに。 なぜ私が体調不良なんかに―― (どうも私の人生は波乱万丈だなぁ) どこかピンぼけした呟きを心の中に落とすと、ロイは本日の最終書類にサインを書き入れて、壁際の本棚に資料を片付けているホークアイに業務終了の旨を告げた。 「お疲れ様です、将軍。 あら、ちょうど終了定刻ですね」 珍しいこともあるものだ、とホークアイ含めその場にいた秘書官もかすかに含み笑いを洩らした。 「もともと今日は出勤予定日ではなかったからな。 たまたま書類が少なかっただけだろう」 「さすがは将軍ですね。仰るとおりです」 「本当にそうなのか!?」 「はい。明日はこれの3倍はあるかと思われますので、覚悟しておかれたほうが宜しいかと」 自分はなんととんでもない副官をつけているのだろう、とロイは今だけでもなにかを恨みたくなる。 そんな上司の心を知ってか知らずか、ホークアイはいけしゃあしゃあと、ではこれで、と言い残し決裁済みの書類を全て持ち抱えて部屋を後にしていった。 彼女が自分を置いて部屋を出て行った。 つまりは本当に帰っても良いということだ。 こうなればこの場に残っている必要など1分の理由も無い。 さっさと撤収するのみ! 「じゃあ、今日は先に失礼するよ」 まだ片付けが残っている秘書官に片手を上げて挨拶すると、はいお気をつけて、と型式どおりの会釈をしてロイを送り出してくれた。 そこからロイはまっすぐ家には戻らず、行きつけのバーに足を向けいくらかの時間を潰した。 実の所、自分の家はあまり好きではない。 一人で暮らすには大きすぎるのだ。 そもそもが大総統官邸として作られた屋敷なので一人身のロイにはまさに無用の長物と思われる部屋や調度品が多い。 必要のない数の部屋を一体どうやって使えというのだろうと、いつも疑問に思う。 せめてもう一人、一緒に使ってくれる人が居てくれたら……。 そこまで考えて、自分が今誰の事を考えたのかが容易に知れて、思わず今日何度目かの苦笑を洩らしていた。 一緒に居て欲しい人? そんなのはこの世でただ一人に決まっている。 「あ〜……」 せっかく回っていた酔いが急速に引いてしまい、ここらが潮時と大人しく家に帰ることにした。 家に向かう道すがら、ロイはずっとエドワードのことを考えていた。 自分が送った品はエドワードの目に叶っただろうか。 送ったのは誕生日に定番のケーキと自分が見立てた緋色のコートに、著名な錬金術師の残した錬金術専門書全10巻。 エドがいつか読んでみたいと言っていたのを覚えていたので、今更かと思いつつ送ってみた。 コートは偶然町で見つけて即座に買ってしまったものだ。 目にした瞬間彼を思い出していた。 きっと着てくれたら似合うはずだから。 そう思って購入した一品だった。 もう夜も更けて己を照らすのは街灯の暗い明かりのみ。 時折自分の横を乗用車が通り過ぎていく。ヘッドライトが眩しくて、ロイは車が通るたびに目を眇めた。 ああ、あれに乗って君に逢いにいけたらどんなに幸せだろう。 今朝方には感じていなかった後悔と焦燥感がぐっと喉元にまで込み上げてきた。 思わず手を口元に当てる。 キモチガワルイ。 君に逢えないと、こんなにも情けなくなるのか。 家に帰るのは辛い。 明かりの無い家を見ると、自分は”一人”なのだと思い知らされる。 子供の頃でさえ感じなかった感情がロイの中でとめどなく渦巻いている。 彼に出会ったから。 エドワード・エルリックという愛すべき存在を知ったから。 お前を待つものなどどこにも居ないのだと、冷たい現実を突きつけられているようで嫌なのだ。 どうにかして、君に逢いたい―― 「鋼の……」 「将軍……」 はたと足が止まった。というより固まったというほうが正しいか。 聞こえないはずの声を聞いたと思った。 まだ官邸を囲む壁沿いを歩いているところで、門のところまでは到着していない。 あと十歩弱というところ。 街灯の明かりが届かない暗闇の中に一人の人影を見た。 はっきりとは見えないけれど、その声が己の記憶に間違いなければ。 僅かに見えるその人の髪の色が”金色”に見えるのが確かならば……。 「鋼の!?」 自然と歩調は早くなっていた。足音がえらく耳についたような気がするが、そんなことは今はどうでもよい。 間違いない、家の前に佇む人物はエドワード・エルリックその人なのだ。 「鋼の! どうして君がここに居るんだ?」 薄暗い視界の中で、彼がこちらの顔をじっと見ているのだとの確信はあった。まさかとは思うが彼が着用しているコートは自分が贈ったものではないだろうか。 じわりと胸に込み上げてくるものを感じて、しかしふと、どうして彼がこの中央に居るのかという疑問が湧いてきた。 思い当たる理由は一つも無い。 今日はエドの誕生日なのだからリゼンブールの家族と共に、今ごろは楽しくパーティなどで盛り上がっているはずだろうに。 冷静に考えると嬉しかった彼との再会も徐々に疑わしきものになっていく。 彼の真意がつかめないからなおさら不安なのだ。 無意識に顔が厳しいものになっていく。更に睨むように彼を見つめていると――。 ぷっ。 エドが軽く吹きだし、笑いだしたではないか。腹を軽く押さえてクスクスと肩を震わせて笑っている。 むっ、と途端に腹立たしくなった。 一体何がおかしいというのだ。 自分がどれだけ目の前の人に恋焦がれていたか、どれだけ悩んだか、知らないにしても久々に再会した相手の顔を見て笑うとは何事か。 今でも真剣にこの状況と理解しようと努めているのに。 それを笑っていい理由などどこにもない。 低音の利いた声でロイは彼の”愛称”を呼んだ。 「鋼の」 彼にとってもなじみのあるはずの銘に、エドは軽く頬を緩めて笑みを浮かべたように見えた。 忌々しいくらいに周囲は暗い、と。 いらつくロイに、エドワードは思いもよらぬ言葉を向けてきた。 「あんたに会いに来たんだよ、マスタング将軍」 え? それまでの怒りなどどこへやら、呆然としてロイはエドワードを見つめた。 彼の発言が偽りなのか真実なのか判断できなくて、否、判断できるほどの冷静さが欠片もなくてただじっとエドを見つめる。エドも何も言わずこちらを見つめている。 暗闇に浮かび上がる金眼の真っ直ぐさに、ロイはエドのずっと前から変わらぬものを見た。 そして数日前のホークアイの双眸を思い出す。 ああ、と思わず声に出ていた。 気が付けば彼を抱き締めていた。 ほとんど冷えきったロイの身体に、エドのぬくもりが何よりも暖かい。 「鋼の……」 もう二度と口に出来ないかと思われていた銘を口にして、身体が身震いするのを覚える。 もう離さなくてもいい。 離さなくても良いのだろう? エドワード・エルリック。 想えば想うほどに強く少年を抱き締めた。 「鋼の」 自分だけの彼の名を呼ぶと、何? と尋ねながら己の背に両腕を廻してくる。 今までで一番近い彼との距離。 嬉しいだなんて、幸せだなんて、もうそんな言葉では表せないほどの想いを、どうしたら伝えられるのだろうか。 「ずっと会いたかった……鋼の」 エドワードを抱く腕に力を込める。 すると己に廻されたエドワードの腕もより一層強く自分を抱き締めてくれた。 うん、俺も、ずっと会いたいと思ってた。 ロイはそれまでの選択が何一つ間違っていなかったことを半ば確信する。 結果ではなく、そのときの己の心に嘘偽り無く道を選んできたことに、一種の満足感を感じていた。 見えぬ先の未来を恐れていたわけではない。 ただこの腕の中の愛しい人を全てから守りたかった。 もうあんな恐ろしい思いはしたくなかった。 自分の傍でこの人の死に逝く姿など……決して見たくなかったから。 けれどこうして触れて体温を感じて、銘を口にしてその存在の大きさが今更のように胸に迫る。 どうして一年も離れていられたのだろう――。 大佐……じゃなかった、将軍だ。 腕の中で笑う少年にロイはそれでも構わないと告げた。 彼の呼ぶ名は全て自分だけのものだという自信があるから、大佐でも将軍でもあまり変わりはない。 そう言うと、それじゃダメだろう、と更に笑ってエドワードは彼の名を呼ぶ。 「リィ」 「そっちか」 「リィ――リィ――」 「エディ……」 エディ リィ。 互いに互いだけの呼称で繰り返し呼び続け、終いには二人とも笑い出した。 「アッハッハッ。も、もうだめ、おかしいっ」 「それは……君がしつこいからだろう……くっくっ」 傍から見れば可笑しな二人だと思われただろう。幸運にもその場には第三者は居なかったし、二人ともまだそのことにも気付いてはいない。 ただ二人で触れ合うことに酔いしれていた。 目の前が家であることも忘れてひたすらに互いを感じたくて抱き合ったままその場を動かない。 どちらからとも無く唇が触れる。 しっかりと味わうだけ味わってわずかに離れたその口から、ロイは今日彼に贈るべき言葉を贈った。 「ハッピーバースディ、エドワード・エルリック」 To Type E... ***************************** お・わ・ったあ〜〜〜〜\(>▽<)/ やっとロイ編が書き終わったよぉ〜!! ナゼにエド編より時間を食ってしまったのか、全く持って分かりません。 そもそもロイ視点から話を進めるのって、私とっても苦手です。 切なくても幸せでもとにかくエド視点で書く方が好き。 なんでかは謎。 とりあえずこの時点でロイ将軍:32歳、エドワード:18歳。 32歳で大総統代行かよ!? 日本で言えば総理大臣……ありえませんな(笑) この話が書けたので後々のお話も書けるというもの! これはかなり嬉しいですvv 今回書く機会をくれた滝山嬢にめちゃ感謝です。ありがたう!! 2004.10.31 戻 |