参った。非常に参った。

 こんなにも自分が入れ込んでるだなんて。

”彼”が傍に居ないだけでこんなにも動揺してしまうだなんて。

 それでもそれこそが幸せの証――。




=Wondrous Day=

   〜Type E〜




 その日は朝から陽気で、土地柄にしては少々暑いのではないかと思われるほどの天候の良さだった。
 目覚めた時点でえらく汗ばんでいるのを不快に感じてベッド横の窓を開けると、涼やかな風がそっと入り込んでくる。さして大きくない開き窓の向こうには、ひたすら続く緑の平面と地平線と彼方に雲を馳せる光りにけぶった大空だった。
 エドワード・エルリックはウーンと背伸びをしてベッドから抜け出す。おそらくアルフォンスがすでに起きて朝食の準備をしているはずだ。ここ何年も二人だけでの生活をしているので家事全般が出来ないわけではないのだが、ここ一年近くは弟に任せっぱなしなのだ。何度か手伝うからと申し出ても兄さんはいいからと断れてしまう。結局のところはさせてもらえずじまいというのが正しい見解だろう。
 参ったな――と最近一人ごちることが多くなった。
 自分の周りにはとても甘やかす人が多くてしかも恩を着せるような人もいないから、エドはただ微苦笑を洩らすしかないのだ。
 その中でもとくに自分を甘やかしたがる人間が一人居た。”彼”はここリゼンブールではなく勤務地の中央におり、そこから一分一秒でも離れられないほどの忙しさで日々追われているはずだ。
 どれだけ会っていないのか、エド自身も曖昧にしか覚えていない。
 今日という日が何の日かと再確認して、嬉しいのと同時に胃が少し重たくなるのを感じる。その理由をしっかりと理解しているエドは複雑な面持ちで寝室を後にした。











「あ、兄さん、おはよう」
 自分によく似た――けれどどこか母親似の――弟はかまどにかけた鍋を食卓に移動させているところで兄に気付き挨拶をする。
「おはよう、アル……っと」
 食堂に入ったエドはすぐさま動揺しアルフォンスに問い掛けた。
 これはちょっと作り過ぎじゃあないか――?
「え、なに?」
 だが投げかけたはずの言葉は器具類を片付けるアルフォンスの耳にまで届かなかったようだ。
 エドはずらっと並ぶ皿の面々を眺める。
 トマトと青菜のサラダにハムエッグにクロッワッサン、ここまではいつものエルリック家の朝食メニュー。今日はそのさらに加えて置かれていたのがチーズを挟んだフレンチトーストに子兎の香草づめ、アスパラとベーコンのオイル焼きに、最後に出てきたのが鍋から湯気を立たせているサーモンとブロッコリーのクリームシチューだ。ここまで揃っているのだからきっとスウィーツもあるに違いない。
「もしかしてデザートかなんかまだあるのか?」
「うん、冷却室にベリーが置いてあるよ。あとでホットケーキ焼こうと思って」
 ガクリ。
 ここまでくるともう見ているだけでお腹がいっぱいだ。
 うなだれるエドをアルフォンスは不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたの、兄さん?」
 いやあ、とか、あの、とか口ごもりながらエドは定席に座り、呆れ顔で何時にない朝食メニューの事を弟に尋ねてみる。
 弟は何を問われたのかをすぐに理解したようで、眉を上げてすぐ次には破顔してみせた。
「これを朝から全部は無理だよ」

 実は夜の分も入ってるからね、とアルフォンスは肩を揺らし笑いながら答える。
 エドは全くもって納得がいかなかった。
「なんだよ、夜の分って」
「だってさあ、予定は未定じゃない? 今の内に出しておいたほうが良いかと思って」
「全然意味わかんねぇ」
「そう?」
 席に着いた弟は、いただきます、と早々に挨拶を済ませトーストに手をつける。
「兄さん、今日くらいは何の日か覚えてるんでしょ?」
「あったりまえだろ。俺の誕生日だ」
 エドは喋りながらハムエッグをフォークで切り取り口に運ぶ。
「うん。お誕生日おめでとう、兄さん」
「……サンキュ」
 何時言われるかと待っていた台詞だったが、不意にさり気なく言われてしまったので妙に照れくささを感じてしまった。
 たぶん、少しだけ頬が赤い。
 けれどそんなことは指摘などしてこない弟なので自分もそのまま気にしないことにする。
 ちらりと弟に目を向けた。
 自分と同じ金色の髪は短く刈り込まれていて彼の端正な顔がよく現れている。なんと弟であるのに自分より10センチも身長が高いことなどは腹立たしいことこの上ない。しかしあれからすでに一年も経っているので今は諦めの境地だ。

 この悔しさも、諦めも、それ以上の幸せを手に入れたからこその感情じゃないか。

 そう考えるとエドの口元に、自然と笑みがこぼれた。
 だってもうすでに夢のようだ。
 一年前まで彼は『鎧』だけの身体で存在していただなんて。
 10と11歳の時に兄弟で過ちを犯し、エドは右腕と左足を、アルフォンスは体全部を”持っていかれ”た。
 アルフォンスは魂だけを鎧に留め、エドも機械鎧の手術を肢体に施して、元の身体を取り戻すために国中を東奔西走してきたのである。
 何年もかけて手がかりを探し、ようやく決着を見たのが約一年前の事。
 それまでに失ったものは少なくなかった。
 大切な人たちの死にも直面した。
 何度もくじけそうになりながら、互いに『元の身体に戻るんだ』と言い聞かせて迎えたその日を、きっと何時までも忘れないだろうと思う。

 あの時は柄にもなく泣いたっけ――。



『良かった――アル――良かった―――』

『兄さん……』

『お前が元に戻って、良かった――』

『兄さん……でも……でも……っ』

『本当に、良かった――』

『でもっ、兄さん!!』


 兄さんの左腕が―――っ!!!!


 ふと、食卓に乗せていた左腕を動かしてみる。
 もうほとんど違和感はないが、それでもまだ指先を動かすにはぎこちない。
 もう少しリハビリは必要だと先日ピナコに言われたばかりだ。
 機械鎧の左腕。
 大切なものを護る代償にくれてやった。
 もしかしたら今度こそ心臓持ってかれるかと思ったんだけどなぁ――

「ねえ、兄さん。機械鎧の調子はどうなの?」
 兄の左腕を動かそうとしている様を見、アルフォンスが尋ねてきた。
「ああ、だいぶマシになったな。”前”の時より切羽詰ってないからさ、リハビリも結構のんきにやってたりして」
「そっか。でも兄さん、早く中央に戻らなくていいの?」
 アルフォンスがサーモンを小皿に取る。
 なぜ早々に戻らなければならないのかと首をかしげながら、エドはアスパラとベーコンを一緒にフォークに突き刺し口の中に持ち込んだ。
「戻って来いって言われてるんでしょ」
「ああ、まあな」
 口をもごもごさせながら返事を返す。
「だけど俺もう国家錬金術師じゃないぜ」
「それはそうだけど」

 待ってる人がいるんでしょ?

 エドの口の動きがピタリと止まり、すぐに再開する。
「……さあな」
「兄さん」
「こんだけ音信不通にしておいて、人の事覚えてるのかどうかも怪しいもんだぜ」
 エドの台詞に、アルフォンスはきょとんと動きを止めて兄の顔をじっと見る。
「便りなら来てるじゃない」
 今度はエドが驚きの顔を見せる番だった。
 自分が待っている人からは一度だってなんの知らせも来ていない。
「いや、こっち戻ってきてからは一度も――」
 互いが互いに視線を交わす。
 会話の齟齬感が感じられて、しかしそれがどこから発せられるのかがよく分からない。
 最初に気付いて首を傾げたのはアルフォンスの方だった。
「――ねえ、兄さん。兄さん、今一体誰の事話してるの?」
「誰って……」



 そりゃあ……、え?



 突如。  部屋の向こうから扉を叩きながら彼らを呼ぶ声が聞こえてきた。
 どうやら荷物の宅配らしい。
 こんな朝早くから?
 僕が行くよ、と席を立ったアルフォンスが食堂から出て行く。
 弟の後姿を眺めながらこの数秒間にとてつもない勘違いをしていたことに気付き、またしても顔が赤くなっていることを自覚した。
 アルフォンスが言っていたのは彼ではなく彼女、つまりはホークアイ少佐の方だったのだ。
 彼女は二ヶ月に1回はエド宛てに手紙を送ってくれている。内容は軍内の近況状況とでも言えばよいのだろうか。エドがいつでも”復帰”出来るようにと、必要最低限な内情を伝えてくれているのだ。無論、彼女たちが勤めているのは国を牛耳る軍の中枢である。なので、あまり込み入った事は教えてはくれないが、もし知りたいのであれば自らここまで来ることだと届く手紙に認められた文章から伝わってくる意思がある。
 丁寧に書き綴られた文章を一文一文目にとめながら、今すぐに帰れるものならと幾度となく己の胸に問うた。
 そう、帰れるものなら帰りたい。
 今すぐにでも、誰某の元へ。
 しかしまだ時ではない。
 それにもう少し弟との平和な生活を、という気持ちもあるから踏ん切りもつかない。
 更に言うと――はっきり言って迷っている。
 軍に戻ることへの抵抗も無いと言えば嘘になるし、それ以前に自分に戻ってきて欲しいと心から思っている人間が本当に居るのかという点で、エドはかなり自信が無い。

 あれから一年経った。

 見事なまでに彼は便りを寄越してこなかった。
 故郷のリゼンブールに戻って最初の三ヶ月は毎日のように郵便受けを確認した。
 その次の三ヶ月は期待こそすれ、もしかしたら来ないかもと期待と失望の狭間で揺れた。
 半年を過ぎてからはもう何も期待しなくなった。
 きっとそれどころではないのだと自分の心に言いきかせ、機械鎧のリハビリだけに集中するようになる。
 それでも、彼の名を思い出さなかった日が自分にあったろうか――

 自分から便りは出していない。
 相手にとっては煩わしいだけかもしれないし、もし読んでもらえなかったらとても辛い。
 向こうの反応が見えないぶん相手にされないかもと余計な恐怖心にかられてしまい、出すに出せないまま時間だけが経ってしまったのだ。
 もしや薄情なのは自分の方なのかもと、エドは一つため息をついた。


「兄さん、この荷物、兄さん宛てだよ」
「へ?」
 己の考えに僅かにでもふけっていたエドは、アルフォンスの台詞にすぐには返事を返せなかった。
 玄関から戻ってきたアルフォンスが両手で抱えてきたのは小包が大小あわせて三つ。
 よっこらせ、と声に出しながら受け取った荷物をエドの脇のほうへ置いた。
「だ・か・ら! 兄さんへの贈り物!! これ誕生日プレゼントだよ」
 だがそれらしき包装で送られてきたわけではない。
 外見だけでは何が目的で送られてきたものかも分からないような、そんな変哲もないものだ。
 それでどうしてアルフォンスはこれがプレゼントだなんて分かったのだろう。
 わざわざ小包にして送ってくる人物などエドには思い当たらない。
「居るみたいだよ、中央に」
 ぴくりと眉が吊りあがる。
「セントラ…ル?」
「差出人は『ロイ・マスタング』になってるけど」

 これ、将軍からだよ。
 にんまりとアルフォンスは笑って、弟は自分の席に再び着いた。
 双眸は小包を見つめて、しかし思考はどこぞ遠くへでも飛んだように間抜け面したエドの顔はそうそう拝見できるものでもなく、これは見物だとアルフォンスは微笑を浮かべながら鍋のシチューに手をつけた。







 エドワード・エルリックは今いろんなことが信じられないでいた。
 ずっと音沙汰無しだった人間が突然便りをよこしたことも不思議だったし、今朝まで故郷にいたのがすでにセントラルのメインステーションに一人降り立っていることも不思議だった。改札を通り過ぎ建物の外に出てすぐに空を見上げると、幾万と輝く星たちがエドを迎えてくれていた。
 ここから目的地までは歩いて30分と言ったところだ。タクシーを拾うこともないだろうとエドは歩き出す。今日はあまり寒くない。極端に寒いと機械鎧と身体の接合部が痛み出すので、それだけは勘弁して欲しかった。
 彼はもう帰宅しているのだろうか。
 いやもしかしたら今日は宿舎に泊まっているかもしれない。
 だったら直接司令部に行くべきか。
 いやいや。
 そもそも自分がここに訪れることは予定になっていなかったこと。
 なのに相手を振り回すのもどうなんだ。

 だけれども。

 会えるものなら会いたい。

 あまり一般では見ることのない乗用車というものが一台また一台と、点灯させたライトで己を闇の中より浮かび上がらせながら横を通り過ぎていく。
 今通り過ぎた車の中に彼は乗っていないのだろうか。
 エドには分からなかった。
 どうか家に居て欲しい。
 せっかく来たのだから会えないままリゼンブールに帰るなんて嫌だ。

「将軍……」

 エドの歩調が止まった。
 ロイ・マスタングが暮らしているはずの館の前に立ち、中を覗き込む。
 軍の上位管理者が生活するために国によって作られた屋敷は、辺り一帯の風景から切り離したように随分と異質な空気を醸し出していた。
 周囲を見回してもあるのは住宅ばかりなのだが、この屋敷は平均的な一般住宅の約3倍はあろうかという敷地の中に作られている。無論建造物もそれ相応に大きい。どうもホークアイ少佐からの手紙によると、マスタング将軍は家に給仕を置いていないらしい。自分で家の事など出来るわけがないのに、雇う気にはならないのだそうだ。
 女性の前ではきっちりと決めるのに、どうして自分の生活には無頓着になれるのかしら?
 ホークアイの手紙の中でのそんなぼやきをエドはふと思い出した。
 彼はまだ司令部より戻っては居ないようだ。
 そびえる屋敷のあらゆる窓が暗闇の中に更に暗く浮かんでいる。どこにも明かりが見受けられない。
 本当に帰っていないのか。
 もしかして実はもう寝てしまっているとか。

 ぎゅっと胸が痛くなった。
 右手で胸の前のシャツを掴む。

 キョウハモウアエナイノカナ―――?





「鋼の!?」
 ハッと掛けてきた声に反応して、エドは左を向く。
 そこに立っているであろう声の主を睨むように見つめた。
 このあたりにはあまり街灯が立っていない。ぼんやりと浮かぶ人の姿も光の死角となる場所にあるため、それが誰なのかすぐには判断できなかった。しかし、聞いた声が自分の記憶と相違なければ、間違いなく彼こそが逢いたいと思っていた人で……。

「鋼の! どうして君がここに居るんだ?」
 つかつかと靴音を立てて近寄ってきたロイ・マスタングはじっとこちらを見つめている。
 相変わらずの黒い短髪に黒の瞳。もともと整った顔立ちをしていたが、それに加えて少々やつれた感じが否めない。
 エドがここにいる理由が全くわからないといった様子だ。
 そんな彼の困惑ぶりにエドの先ほどまでの不安は一触され、苦笑が洩れるのを止められなかった。
「鋼の」
 恐らく彼は怒っている。
 暗闇の中でも彼が眉間に皺を寄せているのが分かった。
 何の説明もなしにただ自分が笑っているから多少なりとも腹を立てているのだろう。
 それくらいが丁度良い。

「あんたに会いに来たんだよ、マスタング将軍」
 


 じっと何も言わず互いに見つめ合ったのはほんの数秒で――。
 ロイの両手が力強くエドを引き寄せた。
 背に腕を回しぎゅっと抱き締める。
 相変わらず身長はロイのほうが高い。頭ひとつ分差がある事にちょっとだけ悔しい思いをして、でもそれ以上にエドは幸せだと思った。
 己を捕まえている彼の全てが温かく、己の名を呼ぶ彼の声が酷く優しくて。
 これが自分の護りたかったもの。
『あの時』、この左腕と引き換えにして護った命がここに在る。
 己のした事は間違っていなかったのだと知り、この一年間の空白が全て満たされたと思った。
「鋼の」
 耳元で囁くように彼が呼ぶ。
「なに、将軍?」
 エドは答えるように自分の腕も相手の背中に回した。
 ロイの腕に更に力がこもる。
「ずっと、会いたかった……鋼の」



「鋼の」



「うん、俺も」






 ずっと会いたいと思っていた。

 長かったような、短かったような、この一年。

 あの日から貴方は一体何をしていたのですか―――?


 過ぎる疑問に答えてくれるはずの唇は、今は己のそれを塞いでいた。
 









To Type R...






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どうにも説明がたらないので、マスタング編も書いてます。
二人が幸せだと思っていただけたら幸いです☆



2004.09.16