=指先の感情=




 シュッシュッ。

「・・・・・・」

 シュッシュッシュッ。

「・・・・フッ」

「〜〜〜だああぁぁぁもう! イライラする!」
 とある官舎のとある一室、国を統括する軍の東方を預かる司令官がそこに一人。執務室に常備してあるソファでくつろいでいるのは国軍大佐のロイ・マスタングだ。
 その横で今まで読んでいた本を叩き付けたのは史上最年少で国家錬金術師となった金髪金眼の少年だった。
「どうした鋼の」
「どうしたもこうしたもあるか! その指先の手入れごときに何十分かけてんだよっ!」
“鋼の錬金術師”エドワード・エルリックが怒るのも無理はない。
 基本的に時間のない中を、わざわざこの家に訪れてきてやったというのに、なんと丸々一時間、何をするともなしに待ち惚けを食わされているのだ。自分としては図書館にも行きたいし、弟との待ち合わせの時間も刻一刻と迫っている。焦る気持ちはどんどん自分を落ち着かなくさせているのだが、当の相手がこれではどうしようもない。
 一体自分は何しにここまで来たんだろう……。


 ロイはというと、ずっと爪やすりでの爪の手入れに没頭しているではないか。
「爪の手入れなら爪切りでパチパチ切って終わりだろ?違うかよ」
「無粋だな」
「なっ……」
「ただでさえむさ苦しいところで勤めているのだよ。傷は増える、肌も荒れる、硝煙と男の汗の匂いにまみれて、いざレディと出会った時に、ささやかでも洗練されたもので接したいと思うのが“大人”の男心というものじゃないかね」

 プチッ。
 エドワードは自分の頭の中で、何かが切れた音を聞いた気がした。もうこうなると本を読んでいても面白くない。
「帰る」
 ソファからおもむろに立ち上がろうとするエドワードを、ロイは宥めるように肩に手を置いて再び座らせた。
 エドワードはこれ以上にないくらいにギッと眉を吊り上げ、目の前の黒髪の青年を睨み上げた。
 普通の人なら怯むその視線も、ロイにはまるで何処吹く風だ。
「まあそう言わずに」
「帰るったら帰る!」
「もう終わったから」
「知るか!だいたい人を一時間もほったらかしにして何」
「しばらく手入れする時間もないくらい忙しくてね。伸ばしっ放しじゃあ折角の逢瀬なのに危ないだろ?」
「…………っ!!!!」
 主語のない説明だがエドワードにはそれが何を指しているのかが容易に知れた。思わず顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
「危ないって……何がだよ?」
 自然と身構えつつ後ずさるエドワードの体を、ロイはしかと両手で捉えた。
 驚いたエドワードは目をいっぱいに見開いて相手を凝視する。
 思考が止まったかと思われたのは一瞬で、次の彼の言葉にエドワードの脳内はすぐさま動き出していた。
「君に余計な傷を残してもいけないし」
「言ってる事わけわかんねえよ!」

 ロイの唇が作る皮肉めいた深い笑み。吐息が触れるくらいにまで近付いて来るから、低く抑えた声なのにやたら大きく耳に響く。エドワードはより一層恥かしくなって、耳まで赤くなっているのではないかと不安になり、ぎゅっと目を瞑って俯いてしまう。
「まあそう言わずに。今夜はまだまだ時間もあるよ」
「!!……だっ、黙れこのエロ大佐っ! そもそも俺は泊まって行くなんて……っ」
「いいじゃないか、一晩くらい」
「良くねぇ! アルが待ってるんだ!」
「大丈夫。彼には連絡を入れておいたから」
「はっ? はっ!?」
 なんですと!?
 流石のエドワードも混乱した。
 自分たちはずっと同じ部屋にいて互いの姿を認識していたはずだ。彼が立ち上がって部屋の隅にある電話機まで移動したなんて、そんなの自分は見ていない。

 見ていない……筈………。

「いつの間にそんなのっ」
「君が本に没頭していた間だが」
「うそ……」
「嘘じゃないさ。なんなら今からすぐアルフォンス君に連絡を取って確認してみるかい?」
 青年が親指を電話に差し向ける動作を見て、エドワードは突如とした脱力感を感じた。

 なんか、肩が重いなぁ……。

 少年はこの時、初めて自分の集中力の強さを思い知った気がした。
 それは長所とも言えると同時に、時を間違えれば短所になるということも。

 きっとこの人が自分に話し掛けてくれた時も、こんな風に気付いてなどいなかったのだろう。

 その思いがけぬ自覚は、少し、少年の胸へと痛みをもたらす。
「全然、気付かなかった」
 己の不甲斐なさに打ちひしがれる金色の少年を面白そうに眺めて、ロイは彼をより一層抱き締めた。
 すでに条件反射で逃れようとするエドワードだが、ロイはしっかりと捉えて離さない。これもまた二人の逢瀬に伴なう一つの楽しみ。


 まだ二人の夜は長い。




 これからもっと君で楽しませてもらうよ。鋼の。




 囁く彼の艶を帯びた静かな響きに、観念したエドワードはもう頷くだけ。







 貴方はその滑らかな爪で、
       どれだけの傷痕を私に残すのでしょうか――?
 






fin.


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ここでは元ネタについて叫んでたのですが、今にして読むとこのテンションが恥ずかしすぎるので削除しました☆
ちなみにこれは最初のアニメを観たときに書いたものです。
あのころの鋼ブームは半端なかったっす(笑)



2009.5.10
コメント改稿2012.5.20