=君だけに捧ぐ=




 今日もたいした事件はなく、平穏に過ぎようとしている午後のひと時。
 窓から見える空は真っ青で雲ひとつない。悠々と翼を羽ばたかせ飛び行く鳥たちの影をなんと無しに追いかけていたロイ・マスタングは、同室のソファに座り込む少年の言葉に、一瞬何を言っているのか理解できなかった。
「………今何といったかね、鋼の」
「だから、あんたの『愛称』を考えたいと言ったんだ」


 アイショウ?


 この国の東方を預かる軍の指揮官であるロイ・マスタングと若干15歳にして国家錬金術師の銘を拝する少年エドワード・エルリックは世間一般で言う恋人関係にある。当然二人でいつも一緒にいられたらとの思いは持っているし、人並み以上の独占欲もある。
 しかし普通で言う恋人達と多少違うところがあるとすれば、二人とも国家錬金術師であること。そして二人ともかなりの達人である故かそれなりの思考回路も持っており、自分達の関係を理詰めで考えてもそれで成り立ってしまうことがあるのだ。
 互いの探究心の深さ然り。
 互いの進むべき道の明確さ然り。
 故に違えるはずの道なのに、どこかで彼らはその足跡を交わらせる。
 不思議な縁だと思う。
 だからこそ惹かれたのか――なんとそんな議論を持ち出して二人で一晩語り倒したこともあった。
 翌日それを聞いたロイの部下がさすがに「バカでしょあんた達」と口にしてしまったほどだ。
「アイショウとは、君と私の?」
 ロイ自身も自分達の関係が今までの女性に対してのそれとは異なっているという自覚があったため、今更のような話題に首を傾げる。
 聞いたエドワードはロイの勘違いにすぐに気付いて、笑いながら訂正してやる。
「それは『相性』。俺が言ってるのは名前の『愛称』」
「ああ……」
 やっと内容を理解したロイであったが、するとすぐ次の疑問が持ち上がった。
 それを口にしようとして、だが当室への新たな訪問者が現れたため、出かかったものをすぐに戻す羽目になった。

 扉をノックし、中に入ってきたのはハボック少尉である。
「大佐、例の頼まれた資料ができました、と。よっ、大将。来てたとは気付かなかったぜ」
 相変わらずの咥え煙草もそのままに右手を上げて挨拶してくるハボックへ、エドワードも軽く右手を上げて返事する。
「お久しぶり」
 ハボックはエドワードの座っているソファの後ろを通り、ロイの執務席正面まで来ると彼の目の前にできた書類の束をこれ見よがしに置いた。
「すまなかったな、少尉」
「いやなに、自分にも関わった事件でしたからねぇ。丁度手も空いてたんで構いませんよ」


 で?
 二人に問うて来るハボックの疑問の声は、そのまま二人に疑問符を浮かび上がらせる。
「なにか面白い話でもしてたんじゃないんですか」
「何故そう思う?」
「そんな顔をしてますよ。二人とも」
 大佐は微妙に顔しかめてるし、エドはエドで悪巧みしてますって顔してますから。
 そう言ったハボックに対して、エドは素直に感嘆の声を上げた。
「へえ、凄いな少尉。なんでそんなの分かっちゃうんだ?」
「鋼の!」
「ふふん、大の大人を甘く見るなよ」
「そこの遊び人、悪乗りするな」
「あ、そりゃないですよ、大佐ぁ。その言葉はそっくりそのままお返ししますよ」
 したり顔のハボックに何を言っても板に水。
 軽く溜息をつくロイをよそに、二人は勝手に話をすすめていた。
 何時の間にかハボックもエドワードの座るソファの、ロイと丁度向き合う位置に腰を下ろしている。

「そんでそんで、何を話してたんだ」
「少尉! 悪乗りするなとさっきから」
「いやだからさ、大佐にも愛称ってやつをつけてやりたくて」
「アイショウ……いわゆる”あだ名”って奴だな」
「そうそう。だってさぁ、悔しいじゃん」
「ナニが?」
「俺っていつも大佐に『エディ』とかって呼ばれるのにさぁ、大佐には何もないなんて不公平だろ」


 だからとっておきのヤツを考えたいんだよ。


 ブッ。
 思わず吹き出したのは、ロイとハボックの双方ほぼ同時だったようだ。
 ハボックは腹の底から大笑いし、ロイは顰めていた顔を更に苦々しそうに歪めていた。
「あ、そんなに嫌そうな顔してると不細工になるぜ、大佐」
「そんなことは気にしなくていい、鋼の。………笑いすぎだぞハボック!」
 机に拳をたたきつけたロイだったが、それくらいで大人しくなるような彼でもない。
「いいじゃないですか、大佐。いっそエドに親近感を持てるものでも考えてもらったら」
「必要ない」
 即答で答えるロイに、今度はエドワードが面白い顔をしなかった。
「ずるいぞ、大佐」
「何とでも言いたまえ。私にそんなものは必要ない。第一……」



 コンコン―――。



 はたとその時止まったのはロイだけだっただろう。
 エドワードとハボックは揃って扉の方を向く。
 中に入ってきたのはマスタング大佐の有能な副官、リザ・ホークアイ中尉その人である。
「あら? なにかお取り込み中でした?」
 場の雰囲気から察したのだろう彼女の言葉に、大きく頷く悪巧み組二人と何も言えず固まっている上司が一人、それぞれがそれぞれの思惑を込めて彼女に視線を送った。

 ふと手を口元に当てたホークアイは、表情を変えずに彼らに問う。
「それで、一体なんのご相談なんです?」
 この瞬間、勝利を手にしたのは若干15歳の国家錬金術師、エドワード・エルリックだった。







 本日も晴天。ここのところ、良い天候が続く。
 『何か有るのではないか』と勘ぐりたくなるくらい気持ちのよい快晴を見上げながら、ロイは練兵場の横を歩いていた。
 それは食堂での食事を終えて、外に出てみようかというちょっとした気まぐれからいつもと違う道を歩いていたロイだったのだが……。

 後方から声が聞こえてきた。
 自分が呼ばれていると分かっていながらも、あえて黙殺することを選ぶ。
 それは少しずつ確実に近づいてきているのだが、どうにも聞きたくないものを聞いているような気がして振り向く気にならず。
 耳に届く声は、やはり自分の大好きな少年のもののようなのだが。



――今だけは聞きたくない。



「……、……ィ」
「……………」
「………ィってば。なあ、リィ!」
「だからその呼び方は止めなさい!」
 すぐ後ろにまで近づいてきた少年の声に、ロイは思わず声を荒げて振り返る。すると、してやったりと笑顔満面で鋼の錬金術師が立っているではないか。これほどまでに殺人的な笑顔は、恐らく弟のアルフォンスでさえ見たことは無いだろう。さも愉快だといわんばかりの輝く少年の双眸に、ロイはある種の諦めを感じた。あの一件以来、何度洩らしたか分からない溜息を洩らす。
「……せめて軍施設の中で呼ぶのは止めてくれないか、鋼の」
「ええ? つまんねぇの」
「は・が・ね・の」
「分かった分かりました。外だったらいくらでも良いんだな」
「仕方が無い……本当にそんなものでいいんだったらね」
「俺は結構気に入ってるぜ、リィ?」
「だからここで言うのは止めなさいと今言ったばかりで……って、鋼の!!」
「あははっ。大佐、早く部屋に戻ろうぜ。俺さっさと見ておきたい資料があるんだ!」


 言うなり少年は大人を置いて駆け出した。
 ロイは追いかける気にもなれず、また一人ゆっくりと歩き出す。
 この自分に悪戯を仕掛けようとする少年などしばらく部屋で待たせておけばよいのだ。






 ふと、思った。
 なぜエドワードはロイの愛称など欲しがったのだろう。
 先日はそれらしい理由を挙げてハボックに説明していた。けれど本当にそれだけなら、それこそ同じ軍人の多く勤めるこの施設内で呼ばなければ意趣返しになどならない。けれどここではもう呼ばないと約束した。彼がしないと言ったのだから、先程のを最後にもうこの施設内で呼ばれることは無いだろう。

 自分は彼をエディと呼ぶ。
 彼は自分をリィと呼ぶのだ。

 恋人同士の睦言のようなやりとり。
 本音を言えば好きではない。
 むりやり特定の人間に縛り付けられているようで、どんな女性と身体の付き合いをしてもそれ以上の親密な関係は否定した。
 そんなロイの性格を知らないはずは無いのに、けれどエドワードは欲しがった。なにかが彼の心に働きかけたのだ。何が少年を動かしたのか、ロイは今更ながらに興味を抱く。興味を抱いてしまったならあとは追求しなければ気持ちが収まらない。エドワードはそういった意味でいつまでも興味の対象なのだ。
 飽きる事がない。
 ただ他の人間が同じ事をしてもそれではダメなのだ。
 エドワード・エルリックでなければ――。

 リィ。

 先日からの己を呼ぶ声を思い出す。
 もたらされる響きは少々納得がいかないけれど、呼ぶのはあの少年だと思うと胸が熱い。
 これもまた一興かと思ってしまうくらいにロイはエドワードに惚れていた。
 それに、彼の決めた『愛称』で他に呼ぶような人間は、少なくともこの軍の中にはいない。
 というよりも、そんな輩がいればロイが即刻消し炭にする。



 彼だけが呼ぶ、彼のための、自分の名前。



 良いだろう。

 暫くはこのまま言わせてみようじゃないか。

 ただし、等価交換の原則に則ってこそ錬金術師は真の錬金術師となる。

 それ相応の代価は払ってもらうよ、鋼の?







・・・・・余談・・・・・




「いや〜、しっかし大佐にあんな可愛い名前を付けちゃうとはね〜。
 やっぱエドは大物だな」
 変なところに感心しているのは、職務室で休憩と称しコーヒーをすするハボックである。
 その周りで同じくコーヒーを口にするブレダ、ファルマン、フュリーの三人。
「でも最初は違う案もあったと聞きましたが…」
 尋ねるフェリーの質問に、ハボックは、ああ、と返した。
「名前が『ロイ』だから、大将も『ロウ』とか『ロン』とか考えたみたいなんだが」
「ロンっていうとあれだな」
 ブレダが言った。

”麻雀”っていう遊戯にそんな名前が出るだろう?

 ハボックはガンと音を立ててコーヒーカップを机に置いた。
「そーなんだよ! 大佐もやり方自体は知らないのに、そういう呼び名があるのだけは知ってて、良いイメージが無かったらしい。なもんで、それだけは断るの一点張りだ」
「なんだか世の人に失礼な事を言っていますよね……」
「…………」
 静かに突っ込みを入れるフュリーに、ファルマンは返す言葉が見当たらなかった。

「ま、これで当分は退屈せずに済むってやつさ」
 全くもって上司思いの部下とは思えない台詞をさらりと吐き、臨時休憩を終わらせた彼らは各自の持ち場へと戻っていった。



 その後、エドワードは三日ほどイーストシティに滞在した。

 彼らが再び旅立つ日までに、

 ロイの顰め面が解けたとか解けなかったとか――。







fin.



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え〜、なんと言ってよいのやら、最後の4人の会話はそのまま箱芭の思考を手繰ってます。
エド専用の呼び名が欲しいなぁと一人勝手に無いもの強請りしてたら出てきたのがアレ。
女っぽいなぁと思ったのですが、書いてみたらエドは意外と気にいったようなのでそのまま決行☆
ということでロイの愛称はうちでは『リィ』さん。
でもこの呼び方にすると、大佐がかなり受け臭っ(玉砕)



2009.5.10